信じるということ

2007年5月27日

JR琵琶湖線にある草津駅からはもう一本草津線という路線が柘植駅まで延びていて、柘植駅は滋賀県ではなく三重県になるのだが、滋賀の裏はすでに三重という地図みれば至極当たり前の事実を再認識させられるわけだ。柘植駅から向こうは関西本線。その柘植に出張だか遠足だかにいくことになった。大川という課長だか学級委員だかが、巻物を買ってこいといった。これからは巻物が大量に必要になる時代が来るから、とりあえず買い占めてこいといった。最初は半信半疑だった僕も話を聞いているうちに巻物を使用することの利便性や先見性を信じるようになって、また「命令」ってくらいだからきっと経費だか給食費だかで後から精算されるんだろうと思って借金してまで買い占めたんだけど、職場だか学校だかに戻ってみると大川は転勤だか転校だかしていて、同僚や級友からはハァ?なにこれ?なんのつもり?って目で見られてる。確かにこんなもんどうするんだと自分でも思う。大川にしてやられた。梯子をはずされた。そしてその頃には巻物はちくわになっていた。ぜんぶ。

柘植といえば伊賀、忍者だから巻物なんだろうけど、ちくわってのはやはりハットリくんか。ちくわに混ぜて時々鉄アレイを投げてくる親父のメンタリティですよ。団塊の世代かな?

確かにこんなもんどうするんだというのは最近よく思う。自分で自分が一瞬わからなくなるというか、常に合理的であるわけではないのが人間であるとしても、自分だけは何らかの論理に忠実に生きていると、何の根拠もなく自分を信じているが時々裏切られる。でも信じている。裏切りにもかかわらず信じている。

例えば神様を僕は信じないのだけれど(それでも無神ではなくて汎神だとは思う)、それがよくわからない。何故僕は神様を信じないという精神の均衡状態を保持するに至ったか。生まれながらに保持しているのか。天動説よりも地動説を、創造論よりも進化論を、思想よりも哲学を、経済競争よりも再分配を、他人のいうことよりも自分のいうことを、ほとんど無根拠に信じているのだけれど、何故僕はこんなにも信心深いのか。このような信仰心はどこからくるのか。宗教にだって、そんな力はない。

ちなみに草津線には乗ったことないし、ちくわに至っては食べたことはおろか見たことすらない。大川が誰なのかも今となってはわからない。もしかすると面と向かって言われたのではなくて、電話とか手紙とか、ヘタすると新聞記事で読んだとか、そんな種類の命令だったのかも知れない。にもかかわらず僕はJR柘植駅や巻物や大川の命令を信じたし、信じた自分に対して不信感を抱くこともない。生きていくことの困難はこういうところにあるのだと思う。

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