死生観以前の問題と死生観

2009年5月31日

臓器移植法改正案の審議はどうなったのか知らんと思い検索してみればなるほど。

「脳死は人の死か」を問うからかみ合わないし泥沼になる。死そのものを論じようとすると結局は不可知論に陥ってしまうのです(死に厳密な定義を与えるなら、眠っているときすらも死んでいることになりえます)。だから、「生死を問わず、一個の人間から臓器を取り出すことの是非」が論点になるはずなのですよ。なぜ、そうならないのか、よくわからない。

当事者の意思表示なしに、臓器を提供するなどということはありえない。自明です。「家族の同意」など無意味です。家族は家族であり、当事者ではないのです。この問題に関しては、当事者とはドナー(とレシピエント)のみです。強いて言うなら家族は遺言執行者に過ぎません(それも本当は「遺言」ではなく「伝言」ですね)。確かに私は、私以外のものによって生かされています。私は、私だけのものではないです。でも、最優先は私でしょう?家族でも医者でもレシピエントでもなく。生きていようが死んでいようが関係なく。私のものは、私が「放棄」の意思を表示しないかぎり、まず第一に私のものです。なぜ、勝手に取り出そうとするのか、まるで理解できない。

ここまでは、死生観以前の問題。臓器移植は死生観以前の問題です。

ここからは、死生観です。

私は、夢をみるのが好きです。手前味噌以外の何ものでもありませんが、私のみる夢はものすごくおもしろいのです。私の脳が、私好みにカスタマイズしてますから、当然といっちゃ当然ですね。私は眠いから眠るのではなく、夢をみるために眠っています。

私は、脳死は死だと思います。であるからこそ、絶対に間違いのない基準と、絶対に間違いのない運用が求められます。が、それは不可能だ。不可能というよりも不可知です。判定する人が当事者でない以上、原理的に不可知を含みます。脳波が停止したからといって、私が夢を見ていないことにはなりません。誰にも決められないのです。

臓器移植というのは医療ではないと思います。少なくとも、一般化できるような医療ではなくて、どういった解決になるのか私には想像すらできませんが、いずれは完全に放棄される過渡期的な技術だと思っています。臓器移植そのものを否定しているのではありません。ただ、ブラックジャックが脱法的に、患者に大金を積まれてやるようなものであり、そのこと自体の是非は私には問えません。

私は正直、自分が死んだ後の自分の身体のことなど知ったこっちゃありませんが、もし、A案が通るようなことになるのなら、早々に「拒否」の意思表示をしておきたいと思います。自分の死にまつわるギリギリの判断を、自分以外の人間である家族に委ねるのはあまりに無体だ、というのが私の死生観です。しんどいのは嫌だから、延命措置はしてほしくないけどね。夢はあの世でみればいいし。