キーボードも終了のお知らせ

2009年2月28日

キーボードなる入力のための道具が何時代に導入されたのかはもはやはっきりとは分かりませんが、いつその役割を終えたかは分かります。今日です。たった今、(正確には15分程前)キーボードは終了しました。運動としてのキーボードは筆記にその座を譲り渡したのです。

運動、と書きました。書くという行為は運動に他なりません。人類はその運動からくる負担を軽減するために、キーボードを編み出しました。しかしそれは誤りだったのです。書くという行為においては運動それ自体が目的であることを忘れてしまっていたのです。運動の喜びを取り戻すために、書くという行為がもつ直線性を取り戻すために、私はキーボードを放棄します。今日、ここから読み取れる私の感情がみなさまに伝染することを切に願います。それは直線であると同時に半歩(あるいは一歩)ずつのずれでもあるはずです。

さて2頁め。この字義どおりの頁という記述が私にもたらすよろこびをどう表現したらいいのでしょう。ワープロソフトの画面上に表示されるあのみじめったらしいアナウンスとはまるで異なるものです。雲と泥です。「書く」という動詞は目的語を取らないと言ったロラン・バルトに倣い、ただひたすら自走していきたいと思うのです。

書くという運動自体が目的であると書きました。打鍵という行為はそれを放棄するものであると。デジタルは訂正を容易にします。その訂正が運動の妨げになる。運動には後戻りなど存在しません。ただ前進あるのみ、直線の運動です。また、デジタルは安易な拡張をもたらします。「変換」は自分の頭で考えることを拒絶します。語彙の貧弱さなど、運動にとっては些細な問題です(確かに豊富であるに越したことはありませんが)。ただひたすら書けばいい。余裕があれば群書を引けばいい。そこで獲得された言葉こそが本当の意味での「自分の言葉」なのではないでしょうか。

やはり楽しい。紙の上にインクののっていく様を見るのは心踊ります。時間を忘れてしまいます。所在を逃してしまいます。直線であるということは「あったかもしれない現実」を考えないということでもあります。考えることもできないわけではないのですが、大いなる徒労感を伴うため、慎重にならざるをえません。つまりそれは「書き直す」ということになるわけですから。

筆を置くタイミングも存外に難しい。だがこれは別の理由によるものだ。ここでの話題にはふさわしくない。ある種の制約もまた推進力になると、理解しておくにとどめよう。徐々に乗客が減っていく。どこまで乗っていくのか知らない身であったら、どんなに幸せでしょう。私は書く。私は書く、と書く。私を書く、と書く、と書く。この無限の連鎖だけが私を生かす動機となるのです。私を?誰が?

【本日の衝撃の事実】

IEはCSS無視ですか。オール無視ですか。

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