□スピノザ『エチカ』を何度でも読む


 人はなんのために生きるのか。なぜ存在するのか。スピノザはこの問いに答えてくれません。少なくとも『エチカ』を読むかぎりはわかりません。
 ただ、人は正しく生きねばならない、清くなくてもいいから正しくあらねばならない、というよりもむしろ存在は正しくなければ存在しえない、そんなことを教えてくれるのが『エチカ』です。人は悩みます。オレはなぜ生きているのだろうか。そういうときにほぐしてくれるのが『エチカ』なのです。疲労した脳をほぐすのではなく、悩みそのものを解体します。脳は緊張したままかも。
 幸いにして私はまだ『エチカ』を一回しか読んだことありません。窮地に陥ったことがないからです。現在もピンチなわけではありません。が、ここらへんで一度、『エチカ』を読み直して、自分なりに整理しておくのも無駄ではなかろうと思ったのです。読んだからといって減るわけではないし、いつだって何度だって助けてもらえるでしょう。
 だから遠慮なく読みます。読み進めます。なんとかしてくれるのは宗教ではなく哲学なのだということも、スピノザは教えてくれます。その事実もまた素敵です。
 何からはじめねばならないか、自明です、存在の権化たる神の存在証明です。ユークリッドの幾何学に倣いまずは神の定義です。神様とは誰かって話です。以下参照するエチカは畠中尚志訳『エチカ』岩波文庫です。

 「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する」(第一部定義一)

 自分のことってすべて自分が原因であるような気がするでしょう。どうしてそんな気がするんでしょう。自意識があるから?右手を上げる。頬に触れてみる。これは僕が今やろうとしてやってること。でも。自己原因って、なれんのよ。なかなか。

 「実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する」(第一部定義三)

 自分のことって実体があるような気がするでしょう。どうしてそんな気がするんでしょう。自意識があるから?右手を上げる。頬に触れてみる。あるでしょうここに僕の顔が。でも。実体って、なれんのよ。なかなか。

 「神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する」(第一部定義六)

 神様なんているわけないやん。僕はそう思います。いまでもそう思います。なのでこれは想像します。いるんです神が。永遠で無限であらゆる性質を持っている、それが神です。実体です。たぶん右手を上げて頬に触れることもできるでしょう。滑空したり、早食いを競ったり、金メダルを取ったり、サルを宇宙に飛ばしたり、発行したり発光したり発酵したり、進化したり退化したり、天下を統一したり、新しいボールペンを編み出したり、週刊誌に暴露されたり、 遊びのつもりが本気になったり、路上教習でエンストしたり、彗星を見つけたり、宝くじにはずれたり、遭難したり、転職したり、名前をつけたり、間違いに気づいたり、柔軟剤を試したり、アリバイを崩したり、マフラーを巻いたり、とどまるところを知らなかったり、満月を眺めたり、爪を切ったり、楽器を習ったり、モーニングを注文したり、クラゲにさされたり、現場を押さえたり、寝癖をなおしたり、塩分を含んだり、信じたり、数を数えるのに専念したり、マージャンをしたり、テレビをみたり、大好きなシャツを着て旅に出たり、 なだめたりすかしたり、周期表をおぼえたり、虫を逃したり、わた雲を追いかけたり、南無阿弥陀仏を唱えたり、合格したり、詮索したり、予知したり、彩ったり、盛りつけたり、よどんだり、ばらしたり、有給休暇でハワイに行ったり、鍵を落としたり、切手を集めたり、病の床にある友を見舞ったり、溶けたり、泳いだり、変態したり、咲き急いだり、離散したり、薔薇を改良したり、 断食したり、召喚されたり、火をつけたり、備えたり、フランス語を話したり、泡を吹いたり、何を見ても何かを思いだしたり、だるの中から生まれたり、世界の果てまで連れてったり、猫の舌に釘をうったり、カルメル修道会に入ろうとしたり、直観したり、電話したり、木にのぼったり、水に流したり、鱒を釣ったり、引っ込みがつかなくなったり、忘れたり、疲れたり、嘘をついたり、コンプレクスを克服したり、コンビナートに沈んだり、物思いにふけったり、すったり、足を踏んだり、言い訳したり、悔やんだり、奏でたり、切符を切ったり、求愛したり、冬眠したり、タイヤに穴を開けたり、螺旋を描いたり、デッサンが狂ったり、袋で子を育てたり、溺死の刑を宣告したり、 ためらったり、何だってやります。便利屋だと思ってください。あなたがしてほしいこと、すべてを抜き書きしてください。上に挙げたのは動作ですが、形容詞でも副詞でも構いません。用言である必要すらありません。活用しなくったって構わない、自立語であるわけがない、文節なんかつくらない。むしろ、で、とか、が、とか、ぞ、とか、ぬ、とか、む、とか、も、とか、の、とか、よ、とか、げ、とか、り、とか、に、とか、す、ものか、とか。助詞ってほんとに不思議だと思うのよ。助詞があるばっかりに日本語は無限の表現可能性を得たと思うのよ。それと助動詞ね。英語と比べたらその差は歴然ね。 助詞と助動詞があればたいがいのことはできますわな。世界を席巻しますわな。そして最後に述語のくる語順。「ライ麦畑でつかまえない」えー、つかまえないんですか。「国境の長いトンネルを抜けると雪国ですか?」そんなこときかれても。「アンドロイドは電気羊の夢を見たり見なかったり」どっちやねん。最後の最後でひっくり返したりわからなかったりぼかしたり、この曖昧な雰囲気を醸しだすにはうってつけの作法です。述語最後ってのは。日本語作ったの誰か知りませんが、このセンスは素晴らしいですね。卓越的ですね。話を元に戻しますね。
 属性ってなんだっけ?

 「属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する」(第一部定義四)

 あぁ、微妙な表現が出てきた。助けてー、というわけで注釈を読んでみると。この定義の解釈には「観念論的解釈」と「実在論的解釈」との二通りがあるそうである(周知のごとくであるって言われた)。要するに前者は属性を実体に関する知性の認識形式に過ぎぬものとする。つまり知性が実体について認識しうるものが属性である、と。それに対し後者は属性を実体そのものの実在性を表現するものとする。 つまり実体に付随する性質そのものってこと。どう違うの?と問われると、違いませんと答えてみよう。少なくとも人間にはこの違いはわかりません。厳密に言うと人間の知性には、ですね。知性を有限であるわれわれ人間のものではなしに、神のもつ無限の知性のことだと解釈するならば、無限の知性は無限の属性を認識するわけだから、前者と後者との距離は少し縮まるかね。縮まるよね。
 縮まったところで、神様についてはわかったような気になったね。無限なんだね。でもいまいち実体と自己原因がわからないね。わからないときは寝てしまうにかぎるね。てなわけで続きます。いつに?ていうかどこに続くのさ。

(2003.2.20)

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