□京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』講談社ノベルス

 最初は松本清張『点と線』だった。森博嗣の『笑わない数学者』、清涼院流水の『コズミック』と続いて、今回、京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』である。まだ最後まで読んでない。だけどわかってしまったのである、それもかなり早い段階で。わかったという表現は適切ではないかもしれない。こうとしか考えられないだろう、ということである。ハイデガーだものなぁ。
 電車の中で開くには重過ぎる厚味であるが、早くしないと先に読んだ妻が今にも語り出しそうなので、朝晩の朦朧とした意識で進めている。しかも読者はミステリ擦れしてない私である。だから、もしかしたら最後でひっくり返るのかもしれない。思い込みは掬われるのかもしれない。いや、むしろそう希望する。詳しくは書かないけど、『点と線』と『コズミック』はまさかそうじゃないだろう、という結末だったので驚いた。『笑わない数学者』は別の意味で驚かされたわけだがこれも詳しくは書けない。ただ、いずれにせよ、ミステリの最大の快楽は突き落とされる瞬間に宿るであろう。それに臨めないのは、さびしい、ていうか腕がしびれる。すでに、3度も落としている。一度は座っている人の膝に落とした。分冊にするわけには、いかんのか?
 あと、今回はどうもひとネタっぽい。さまざまな思惑が錯綜して歪な事実を作り上げるのも京極堂シリーズの魅力ではなかったか。確かにそういった意味では、『姑獲鳥の夏』に似ているかもしれない。知れない。

(2003.8.30)

□佐藤友哉『水没ピアノ』講談社ノベルス

 萌えである。データベース的要素として抽出される萌えではなく、むしろそんなものはまやかしにすぎないのであるがどうしても信じたい感情移入としての萌えである。私はこの『水没ピアノ』の主人公に萌えた。朝起きてiBook(タンジェリン)で、メールのチェック。紘子から届いている。紘子って誰だ。冷蔵庫から取り出したおにぎりをかじり工場へと出勤、時給900円。携帯電話のシール貼り。充足や疲労や疲労に伴う充足などないまま帰途へとつく。紘子から薦められた中村一義を聴く。 何のために。飲みたくもないビールを飲む。その繰り返し。これは誰なのだろう。僕ではないのか。ノンフィクションではないのか。90年代そのものなのではないか。 紘子とのメールやり取りは喜びだとか慰めだとかではなくもはや生活であり90年代である(くどいですすみません)。世界は、自分の外部にあって、簡単には壊れない(というよりも絶対に壊れない。地雷を蹴っ飛ばしたって)。終わらないから世界なのである。戦争が起きたって終わらない。 明日も会社に行かなくちゃ、生活があるから、たぶん紘子はメールをくれるから。切ないなぁ。どっかいってくれないかな。少なくとも僕は壊れないし、明日休まないし、だから壊れるみたいな小説を読んでいるのだろう。何度でも繰り返すが、萌えである。これは僕が30も手前にさしかかって初めて抱く萌えなのであろう。他の二つ(三つの話が並行する)がリアルに思えない分だけ、余計に萌える。あんまり萌え萌えいってると嘘くさくなってくるな。嘘だから仕方ないか。

(2003.06.29)

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