□吉田健一『金沢』講談社文芸文庫

 最初の一文でこの小説を予想する。「これは加賀の金沢である」。つまりは都市小説であり、酩酊小説なのである。酒飲んでぐでぐでになって、金沢なのかしらん、金沢だったよね、って話である。
 いや違った、金沢ってば観光都市、兼六公園だ金沢城だ、金沢城ってあったっけ。というのもつまりこれは非在の都市アグラウラである、に似ている。 似ているというよりもそっくりである。そっくりというよりも同じことだ。金沢はアグラウラなのである。むしろ見えない都市なのだ。あなたは金沢に行ったこと、ありますか。私はあります、が、ないといっても差し支えない。アグラウラだってそうだ、行ったことあるし、誰と行ったかどうやって行ったか、何日間滞在したのか、それはいつだったか、すべてちゃんと説明できる。説明する準備がある。アグラウラの側だってそうだろう。私が訪れたことを覚えているし、尋ねれば答えてくれるだろう。答えは常に用意されているだろう。でも私はアグラウラに行ったことなどない。どこにあるのかさえ知らない。同じことが金沢についてだって言える。どうやって行ったのか、どこを観てどこに泊まったのか。何を食べたのかまったくわからない。答えてもいいが、その答えに意味があるのかどうか。「これは加賀の金沢である」。  決定するのは金沢自身であり、読者であろう。金沢とは見えないものを見る試みから浮かび上がる、つまりは浮上都市なのである。東京だって、ほら、宇宙都市だし。わっしょい。

(2003.1.5)

□ ゴーゴリ(平井肇訳)『外套・鼻』岩波文庫

 人間を大きく二つに分けとき「ダメ」の側に入る私にとってゴーゴリの短編「外套」は救済だ。《ある省のある局》に勤める官吏(ただし立派な役職ではない)アカーキエウィッチは外套を新調しようとするのである。外套を新調する!この時点ですでに悲劇の予感を肌に覚え戦慄する。ダメの側だ。万歳三唱。
ロシアは寒い。外套がないと冬を越せない。この外套という必然に「ダメ」が宿るから悲劇なのである。読み進めるのが苦痛だ。もう先が見えるのだ。というよりもむしろ昨夜の続きだ。毎晩続いていく悪夢だ。「ここ」でしか生きていけないであろう主人公、せますぎる、六人ぐらいしか人間のいない、「ここ」に30年。そんな種類の閉塞停滞感が夢から覚めてもなお夢のような現実を活字世界に作り上げる。
 作り上げる、なんて書いて、客体化を試みるも失敗。ただ自分以外にもこういう「ダメ」を病む人がロシアにいるという事実だけ。そして自沈。
 気を取り直して「鼻」。こちらは一転喜劇調、床屋で顔剃ってもらったら、鼻取れてトコトコどっかへ行っちゃった。男なら一度は夢見るファンタジーですな。見ませんか。

(02.04.03)

□ ジュウル・ルナアル(岸田国士訳)『にんじん』岩波文庫

 だんだんと(昨年あたりから)「私の好きな翻訳文学」めいてまいりましたこのページ、いっそ開き直りましょう。今回もみんな読んでる集めてるルナアルの『にんじん』でございます。またしても全文引用への抗いがたい誘惑へ抗いつつ書き進めるのでございます。
 「にんじん」というのは人好きしない、端的にいうと「世故いガキ」なのだそうで。訳者による解説から借りてみれば「自分の子供にこんな渾名をつける母親、そして、その渾名が平気で通用している家族というものを想像すると、それだけでもう暗澹たる気持ちに誘われる」。それでも私はあえていおう。非難を怖れず正しくいおう。「あなたの心にきっとにんじん」。
 にんじんは道ばたで一匹のモグラを見つける。さんざんなぶっておもちゃにした揚げ句とどめを刺そうと空中に放り投げる。ところがモグラはなかなか死なない。頭が割れ脚が折れ背中が裂けて血まみれになってもピクピク動いている。にんじんがムキになって叩きつければ叩きつけるほど、モグラは死なないようにみえてくる。
 あなたの心にルピック氏。サン・マルク寮に入ったにんじんが父親に手紙を寄越す。
 「親愛なる父上。お願いがあるのです。本を一、二冊買ってきていただけませんか。フランソア・マリ・アルウェ・ド・ヴォルテエルの『ラ・アンリヤアド』と、それから、ジャン・ジャック・ルウソオの『ラ・ヌウヴェル・エロイイズ』とが欲しいんです」
 「親愛なるにんじん殿。御申出の文士は、其許や余らとなんら異なるところなき人間だ。彼らが成したことは其許も成し得るわけだ。せいぜい本を書け。それを後で読むがよかろう」
 暗くない、短い、乾いている。ルナアルを好きな理由。あんまり書き過ぎちゃいかんだろう。挿し絵も素敵。

(02.02.16)

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