□ マッシモ・ボンテンペルリ(岩崎純孝訳)『わが夢の女』ちくま文庫


 ボンテンペルリの日本における愛読者数、4万は下るまい。活字離れ、ファシズム憎悪などの理由から潜在的とならざるを得なかった隠れ読者をも勘定すれば40万は堅いだろう。なのに何故ずっと品切れちくま文庫。多大なる不幸にして未だ読んだことのない方のためにこの珠玉の短編集から秀逸の一編を選り抜きそのあらすじを記してみたいと思う。「陸と海との冒険」。 トリーノについたある朝、御者を待たせたままキャラメルを買おうと立ち寄った菓子屋で、私は5年ぶりにジュリエッタと再会する。つれだって料理屋へ行くも、そのジュリエッタが原因である男とケンカになり、手近にあった瓶をつかんで振り上げた。ジュリエッタはそんな私を見て気絶、周囲の者に連れ去られてしまう。男と私は決闘することになる。10対10の決闘にまで発展し、決闘者、介添人らとともに自動車に乗ろうとすると、「決闘するものは死刑」という勅令ののった号外が。そこで決闘者、介添人らと私は決闘場所に決めていたサリーチェ谷の庭園へ行くことをやめ、外国ゆきの帆前船に乗り込んだ。が、船は暴風雨に遭い、海賊に襲われ、仲間は全員殺されてしまう。私は捕虜となり、野蛮人たちの島へと置き去りにされてしまった。そこで私は野蛮人たちの王さまになり、さまざまな命令を与え、退屈すると、空間と時間との関係に基礎を置いた新しい哲学の新体系を著し、瓶に詰め海へと投げ込んだ。が、何度投げ込んでも瓶は戻ってきてしまう。仕方ないので丸木舟で少し沖に出て投げ込むと、上手い具合に沖の方へと流されていった。満足し、海岸へ戻ろうと丸木舟の向きを変えたところで、私はその原稿に索引をつけ忘れたことを思い出し、慌てて追いかける。幾日も幾日も追いかけて、ついに瓶はある海岸へと流れ着く。私もようやく追いついて、瓶を握り持ち上げたとき・・・。
 私は思いだしたのだった。トリーノの小料理屋で瓶を振り上げたことを。そのとき私を見つめていたジュリエッタを。私は泣いた。何時間もさめざめと泣いた。その涙が魂を清め、私は信念に満ちて歩き出すのだった。歩いているうち税関にたどりつく。官吏が私を呼び止めるために発した言葉はなんとわが母国語だった。瓶は没収されたがかまわず、私はなおも歩き続ける。門の陰で眠り、目が覚めると新聞売り子の声が。私はトリーノにいたのだった。カステッロ広場には私が待たせた御者が居眠りをしていた。馬車に乗り込むと御者は振り返り言った。 「こんどは、どちらへ?」 「中央駅だ」 メータは八万七千四百三十二リラ。私は九万リラ札を渡して、つりも受け取らずに歩き出すのだった。 あ。ぜんぶ書いてしまった。これだけの内容を6ページに凝縮、ボルヘスも真っ青である。これはもうぜひに読んでほしい。もしかすると、『世界ユーモア文学全集5』(筑摩書房、ベネットとのカップリング)の方が入手しやすいかもしれない(私もこっちを持っている。古本祭りの百円均一コーナで見つけた)。人生の半分は損になってしまうので、読まずに死ぬようなことは絶対に避けてもらいたい。
 それはそうと『ヴィスコヴィッツ』以降、なーんか曰くあり気な選択が続くなぁと思ったら、そうか、今年は日本におけるイタリア年だった。

(2001.12.22)

□ アントニオ・タブッキ(須賀敦子訳)『遠い水平線』白水社

 タブッキの作品はどれも愛おしくてひとつ選ぶことなどできはしない。目をつぶって手に触れた本書の感想文を書こうと思う。僕が読んだのは大学二回生の夏(夏ってのはウソ記憶かもしれない)であり、当時スピノザを好きでいた(現在も好きでいる)僕は、スピーノという名を与えられた主人公に嫉妬に似た感情を抱いた。スピーノは死体置き場に勤める。ある日運び込まれた男の死体。身分証明書は偽造されたものだった。男は一体誰なのか。新聞に載った写真を見てスピーノの恋人サラはぽつりと言う。「あなたに、頬ひげがあって、もう二十歳若ければ、あなただと思っちゃう」
 スピーノは死体の身元調べをはじめる。いや、身元調べなどという確たる行動ではない。これは彷徨である。彷徨小説である、僕の大好きな。『インド夜想曲』も純然たる彷徨小説だった、僕の大好きな。そもそも彷徨しない小説など存在するのだろうか。存在する以前に可能なのだろうか。スピーノは曖昧なまま探索を続ける。教会では神父にこう尋ねられる「どうして、彼のことを知りたいのですか」「むこうは死んだのに、こっちは生きてるからです」
 スピーノの行動は不思議だろうか。彼の思いは男の痕跡と同じように断片的で、なんとも心もとない。見つかるのか。伝わるのか。会えるのか。たどりつけるのか。暗くない、人生は彷徨でないと、誰に決められよう。
 生者と死者との境界線、僕と彼との境界線、現実と幻想との境界線。水平線は遠くない。目の中に持ってる人だっているくらいだからね。

(2001.11.08)

□ ディーノ・ブッツァーティ(脇功訳)『タタール人の砂漠』松籟社

 オレ、タタール人。ていうかあいつらが勝手にそう呼んでるだけなんだよね。侵略者とか思われてるみたいだけど、そんなことないし。攻める気ないし。平和主義者だし。むしろあいつらの方が砦とかつくっちゃって、どうなの。攻めてくるの。いつかやられるんじゃないかって漠然とした不安あるよね。だからって警戒してるわけじゃないけどね。たぶん大丈夫でしょ。戦争とか嫌いでしょ。砂漠だしさ。占領したっていいことないよ。そこまでバカじゃないよね。わかってるよね。ことばなんだよなぁ。ことばわかんないから、何考えてんのかもわかんない。ことばわかっても、コードとかたぶん違うし。同じ人間だからとか、そういうの通用しないし。だいたいタタールって何よ。野蛮、みたいなニュアンス?べつにいいけど、何かむかつくよね。だからってやってやろうとは思わないけどね。
 存在しないものについて書くことは可能か。何も起こらないということについて書くことは可能か。あらためて指摘するまでもなくこの世には、存在するものよりも存在しないものの方が、すでに起こったことよりもまだ起こっていないできごとの方がたくさんある。「オレ、タタール人」などと話すタタール人は存在しないし、タタール人は彼自身も話す(いや、話さないのか)とおり攻めてきたりはしない。その意味においてこの小説は圧倒的なリアリティをもって書かれているといえる。砦は確かに存在した。ドローゴは任務に就きタタール人の襲来を待った。しかし、何も起こらないのである。起こるはずがない、それが人生だから。
 それが人生だからこそ、ついにタタール人は襲来するのである。ドローゴが老衰し砦を去ってゆくときに。ほんとうにいやな小説だ。不条理と簡単に、吐き捨ててしまってよいものか。それ以上のことばを僕は、持たないのだけれどさ。

(2001.11.02)

□ イタロ・カルヴィーノ(和田忠彦訳)『むずかしい愛』岩波文庫

 笑顔である。笑顔に騙されているのである。騙されていると、わかっているから騙されてないのだ、と、つまりは騙されているのである。苦しいし困惑するし出口だって見えはしない。なぜオレだけがこんな気持ちにならねばならないのか、不公平ではないのか、とここまでくれば逆恨みである。なぜオレが騙されているほどに、向こうは騙されないのか。愛がむずかしいといわれる所以である。
 などというような具合に、この本を読めば、少しわかった気になる。非インターアクティブ故の、愛の不可能性が見事に描写されている。これは冒険ではなく闘いである。おもしろいので冒険と闘いとを置き換えてみる。
 「ある兵士VSある未亡人」「悪党ジムVS娼婦アルマンダVS憲兵アンジェロ・イン・ザ・ベッド」「セパレーツのイゾッタ夫人VSこの世の男たち」「ある会社員(あるいは君?)VS日常(あるいは世界?)」「撮るものVS撮られるもの」「ダンドリくん列車の旅」「読書と邪魔と葛藤と」「見るは愛、見られるは…」「はじめての朝帰り」「彼の温もり彼女の薫り」「カラー」「たったひとつ、その仕草」
 むずかしいばかりではなく、例えば「ある夫婦の冒険」なんかはオチもビシッと決まって、愛だねぇ、愛しあってるねぇ、とほっこりさせられるわけであるが、「ある会社員の冒険」「ある読者の冒険」など、どうなの、それって愛なの、愛と呼んでもいいの、むずかしいというよりも微妙である。前者の愛がリズムであるのに対し、後者の愛はリズムを乱すものでしかない。そして実在する愛は、ほとんどの場合後者である(少なくとも私にはそう見える)。
 だから愛は滑稽だ、と結論したくもなりますが、そこはひとつ堪えまして。彼女が笑うのは、混沌世界のただひとつの調和を知っているからなのだ。彼女は幾千もの笑顔から、まさにその笑顔を選び取ったのである。惨めだろうが無様だろうが、あなたに会えて僕は幸せだ、その笑顔がただ幸せなのだと、表明してゆきたいのでございます。表明ってのはウソだな、こっそり信じよう。

(2001.10.16)

□ アレッサンドロ・ボッファ(中山悦子訳)『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』河出書房新社

 あー、完全にはまった。この小説のおもしろさを伝える、僕のことばは微力である。こういう類いを読むために、僕には本が与えられているのだ。「語りえぬものには沈黙せよ」と誰しも言うが、それすら許されそうにない。
 ヴィスコヴィッツはケダモノである、と。じゃあサヴァコヴィッツやハリコヴィッツはどうなのか。ましてやアサコヴィッツは。試しにサヴァコヴィッツを「おまえはケダモノだ、サヴァコヴィッツ」と呼んでみた。サヴァコは抗いがたい衝動に抗おうともせず、「ニボシ!ニボシ!」と檻齧った。試しにアサコヴィッツを「おまえはケダモノだ、アサコヴィッツ」と呼んでみた。アサコは抗いがたい衝動に抗おうともせず、「はいはい、いってらっしゃい」と手を振った。
 表題作であり最後の短編でもある「おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ」に至って、ヴィスコヴィッツとは何かが明らかになる。ヴィスコヴィッツとはすなわちことばそのものなのである。ことばであることを契機としてケダモノ一般のヴィスコはひとつの個体になる。「自分自身であることが、なによりだいじ」になる。「変わらないために変わり続ける」ことを選択する。
 
 そのときだった。最後に残っていた確実さのかけらすらも、ぼくが失ってしまったのは。
 そして、ここにいたってようやく、ぼくは自分自身をみつけたのだった。
 が、それを識別できたかどうかは、わからない。

 ヴィスコヴィッツということばが宿る。あらゆるケダモノが他の何ものでもなくヴィスコヴィッツであるためには、彼自身語り続けることが肝要。それは音韻ではなく、沈黙であったり、頭に突き刺した毒針であったりするのだが、いずれにせよ饒舌であり過剰である彼の語りは彼自身の存在を前面に押し出す、押し出しながら後退する、読者は問わざるを得ない、ヴィスコヴィッツとは何ものなのか。

 「ぼくって誰なの?」ぼくは考えていた。答えが見つからないので、父親に聞いてみた。
 「状況次第だな」

 状況次第ですか。

(2001.08.18)

□ ミシェル・ビュトール(清水徹訳)『心変わり』河出書房新社

 古書店に注文した『ミラノ通り』と『合い間』が旧年内に届いて、知らない間に講談社文芸文庫におさまっていた『迷路の中で』などをもダラダラと読みつつ、ヌーボーロマンによる世紀越えとなったのでありました。そこで今回はビュトールでいちばん好きな『心変わり』について書いてみようと思うのです。あらすじ。

 パリからローマへ向かう列車、浮気相手に会いにいく男の心変わり。

 これだけです、ほんとにこれだけだ。おもしろいはずがない。のでありますが、これがすこぶるおもしろいのでありまして、何がおもしろいかと申せば、すなわち「きみ」なのであります。 この小説の主人公は「きみ」と呼ばれます。語り手と二人称との距離感が、男の心変わりを絶妙に描写するのです。「きみは真鍮の溝の上に左足を置き、右肩で扉を横にすこし押してみるがうまく開かない」「きみはやっと四十五歳になったばかりだ」「ごま塩まじりとなっているきみの髪が、すこし逆立っている」「きみは・・・」「きみは・・・」「きみは・・・」・・・。違和感を覚えるのも最初のうち、催眠術さながらに読者は「きみ」への感情移入を深めていく。いや、「きみ」というのはあくまでも「きみ」でしかなく、私は「きみ」にはなりえないのであるが、「きみ」の心の変遷を表現するにはこの「きみ」という二人称をおいて他にない、ということが、私には痛感できるのであります。奇を衒っているのではなく、必然。一人称にも三人称にも、この芸当は不可能でしょう。
 作中、何の前触れもなく、「きみ」が「かれ」になるところがあります。「きみ」が夢を見ているところです。「きみ」は流れのまま「かれ」へと突き落とされる。この二人称から三人称へのずれが、現実と夢とのずれを見事に比喩しています。現実においては「きみ」から「きみ」へと帰ってくる自我も、夢の中では「かれ」の方へと向かってしまう。ここに夢のままならなさ、もどかしさがあるのでしょう。時間を自在(少なくとも読者にはそう見えるし、誰しもが経験していることだと思う)に行き来する記憶においては「きみ」は「きみ」のままでいられるのです。まぁ「きみ」は「きみ」でいいとして、夢に現れてくる「かれ」ってのは一体ぜんたい誰なんでしょうね。それがわかれば「夢」という不可解な事象についても、すべての説明が与えられるような気がします。

(2001.1.2)

HOME | BookRevueMenu