□ 古井由吉『白髪の唄』新潮文庫

 生と死、正気と狂気、夢とうつつ、それらの対概念は決して対ではないと思うのです。少しずつ死に少しずつ狂い、夢を見ながら現実に臨む。ながらという言い回しも適切ではないかも知れない。現実と夢とは不可分です。

「その夜遅くに菅池から電話があった。変わりはないかいとたずねて、いやあ、この暑いのに、金沢の街を歩きまわってきたよ、といきなり言う。あそこの夏も暑いからね、仕事のついでかい、とたずねると、いや、霙(みぞれ)時の金沢なんだよ、と妙なことを答えて、話の中だけなんだ、と息をついた。」(300頁)

 僕はかなり出不精で外に出ることがあまりない。だから旅の記憶などはすべてニセ記憶に思えることがある。たまたまなのですが、金沢。金沢には何度か訪れていて、個々の記憶は独立していない。日記をつけることによって辛うじて区別できるものの、その日記の整合性まで疑ってしまえば、ますます僕の記憶は混沌としてくる。夢だったのか、いつだったのか、連れはあったのか。金沢ついでに吉田健一の『金沢』もかなりふらふらです。この場合の契機は酩酊でありまして下戸の僕には知る由もないのですが、いずれこの欄に書きます。
 『白髪の唄』を楽天に読むことはできませんでした。筆者ぐらいの境へ達してしまえば何のことはなくとも、身につまされる僕にはリアルな問題なのです。働き盛りのサラリーマンが狂ったり、狂ったふりをしたり、狂ったと噂されたり(それらは全部同じことですが)するようなことが、特殊だとは思われない。あまりにもリアルでそして筆者の文体があまりにも自然で。

(2000.10.10)

□ 麻耶雄嵩『木製の王子』講談社ノベルス

 家系図です。世代が降りるにしたがって収束していく。その終息の様はまるでこの世界の果てのようです。これだけで私は読む価値ありと判断しました。導入部の「謎」としては十分でありましょう。そしてその謎は見事に明かされます。鉄道のダイヤグラムを思わせる緻密なアリバイトリックも、アリバイ崩しへのアンチテーゼであるだけでなく、正当な手法でもって解かれる正当な謎です。つまり一点たりとも曇るところなく靄靄は散るのですよ。 なのに。私はがっかりいたしました。私が麻耶雄嵩に求めているのは良質な本格ミステリではないのです。いかに破綻させるか、これでしょう。 自ら作り上げた物語世界を物語自身の手によって崩壊させる、カタルシス。それでいて本格ミステリとしてのマナーは遵守する、律義。『夏と冬の奏鳴曲』で迎えたあの、膝の関節を抜かれる感覚、をもう一度味わいたいのですよ。最初から破綻している物語などおもしろくもなんともない。破綻のない物語では物足りない。『木製の王子』でいちばんおもしろかったのはもしかすると「結婚しました」であったかも知れません。

(2000.9.16)

□ 折原一『冤罪者』文藝春秋

 人が人を殺す。それがつまり殺人事件で、そこには被害者と加害者が存在するわけですが、もし加害者がほんとは加害者でなかった場合(厳密に書くと「加害者ではない可能性があるとき」ですね)、話は複雑になります。容疑者、警察、被害者の遺族、目撃者、容疑者を支援する団体、主人公そして真犯人、あらゆる視点から語られ、一体何が真実であるのかわからなくなる。事実は視点の数だけ発生する。誰が一体犯人を決めるのか。人間なのか神なのか。誰が誰を裁くのか。
というような話だと思って、前半を読み終えたのです。ところが後半から結末を読んでびっくりしましたね。犯人、まさかね、この人がね。とてもそんなふうには見えませんでしたよ、ええ。とても感じのいい人で。会えば挨拶するぐらいの仲でしたけどね。ほんと人は見掛けによりませんねぇ。
 そして誰もが正しかった・・・。真実はすべての事実を包含しうるわけです。

(2000.8.10)

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